青空の下、雪の急登をスノーシュウでスタスタと何本か越えて行く。少しづつではあるが遥か遠くに見える乗鞍岳の頂きがだんだん大きくなって来た気がする。
今日歩いているのは乗鞍のスキー場から更に上へ進む、雪で埋まった林道を登るツアーコースと呼ばれるバックカントリー御用達の冬期ルート。アイゼンやワカン、スノーシュウで登る登山者もいたけど、殆どはスキーやボードを担いだバックカントリーの人達だった。ルートの雰囲気は林の中のスキーコースと言った感じだが、時期的にリフトもまだ動いてないし、急登もそこそこあり、距離も長いから決して楽ではなかった。でも前回の笠ヶ岳で撤退してしまったので今回はなんとしてでもピークを踏みたい、そんな思いで先を急いだ。
天気予報は快晴の強風。予想より遥かに積雪しており、歩いていてとても気分は良いものの、ワカンやスノーシュウがないと進むのはかなりキツく、アイゼンの登山者は次々と脱落して気づくとほぼいなくなっていた。それにしてもスキーを履いてどんどん上に登って行くバックカントリーの人は本当にタフだ。あれで登って行くのが楽なのか、それともしんどいのかはやったことがない僕には見当もつかないけど、結構な速さでガンガン登っていくからなかなか凄い。スノーシュウでも少し沈んでしまう雪道もスイスイ進んでいくからスキーっていいなぁと感じざるえない。
スタートして2時間半ぐらい登り続けると、標高2300m地点の位ヶ原と呼ばれる平原に出た。山荘もある場所だ。この平原を抜ければ、いよいよ乗鞍岳の剣ヶ峰に取り付く事が出来る。やっとここまで来れたかと思い、少しホッとした。が、その安心感も束の間で終わった。
少し気にはなっていたのだけど、晴れているのに、乗鞍岳の山頂付近だけがどんどん厚い雲が覆われていった。しかも見るからに地吹雪が起きている。冬の強風には慣れているから、風は正直そこまで気にしてはなかった。雪原に出ると更に雪が深まり、スノーシュウでも一歩一歩が深く沈み始めた。風も吹き荒れ始めて体感温度が一気に下がる。その寒さで薄めの手袋をしていた手が冷気で痛くなった。これはまずいと少し焦りながら、風を防げそうなちょうど良い林を見つけて一時避難。フリースの上にハードシェルを羽織り、ゴーグルを装着。手袋も急いで冬用のグローブに替えた。なんとか装備を変更したところで再び歩き始めると、青空や太陽は踊り狂う雲に飲み込まれて一瞬で見えなくなり、風がバチバチと叩きつけるモノトーン世界に反転した。それは一瞬の出来事。それがとにかく美しくて神々しくて、私はただただしばらく立ちすくんでその光景に飲み込まれた。
なんとか位ヶ原の雪原を抜けるとお馴染みの公衆トイレの建屋がある場所に出て剣ヶ峰に取り付いた。夏なら1時間か1時間半もあれば山頂に辿り着ける。ここから肩ノ小屋を経由して山頂に向かうのが一般的。僕は雪崩が怖いからやらないけど、カール状の斜面を直登する事も可能みたいだ。天候は更に悪化して辺りは完全にホワイトアウト。真っ白で近くしか見えなくなっていた。心の中では今日はもう無理だと半分以上諦めていたが、何故かまだ行けると言う気力と体力は残っていた。
バックカントリーの人達が、風を凌ぎに公衆トイレの影に集まっていた。すると青いシェルを着てピッケルを持った若者(?)に話掛けられた。ゴーグルで顔も良く分からず、風で何を言ってるのか聞き辛い。しかもなんと彼はアイゼンでここまで来ている事にちょっと驚いた。「この辺りが山頂でしょうか?どっちに行けば良いのでしょうか?」と聞かれたので、山頂の方向は分かるものの、辺りを見渡してみると何も見えず。良く見ると薄らと見覚えのある登山口の標識的な物があったので、「山頂はあっちで、そこから先を進んでこの雪だと後1時間半か2時間ぐらいかかるかも。そんなに近くはないです。」と伝えた。すると彼は私におじぎをしてトイレの建屋の方に避難しに向かって行った。あれじゃ登頂は無理だ、諦めたのだろうと私は思った。
近くにいたバックカントリーのグループが、「テキトウにこの辺を滑って、もうここでドロップアウトするか、雪が重くて変だし」と言っているのが聞こえた。
しばらく休憩すると私は次の目的地の肩ノ小屋を目指して再び進み始める。この天候がかなりヤバめなのは理解していたが、なんせ今日の天気予報はピーカンなわけだし、こんなのは一時的なもんで良くある事だ。なのでなんとなくこの暴風の雲はもう少しすればスッキリと取れる気がしていた。それにこれぐらいの風やホワイトアウトは別に初めてではない。装備が優秀なおかげか、寒さも問題なく凌ているわけだし、まだしばらくは大丈夫だろう。でも気づくと辺りには誰もいなくなっていて自分一人になっていた。振り返るとなんとさっきの青いシェルの彼が下の方に青い点になって薄っすらと見えた。大丈夫かなと少し心配になった。なぜなら僕は今スノーシュウで膝上まで足が埋まっている。トレースなんてそんな都合のいいもんは無く、雪を掻き分けながら進んでいてかなり厳しい状況だ。そして私は更に登り進めるとある異変に気付く。それはさっきよりガスの白の濃さが増していて、辺りどころか足元すら白くて見えなくなっていた。これは流石にヤバいと感じた。
振り返るとさっきの若者も気付くと見えなくなっていた。見えないだけなのか、流石に諦めたのだろうか。私もそろそろ限界かなと思いつつも進んでいると、次の瞬間足元が宙に浮いた感じになりフワッとなりながらバランスを崩し、倒れて下へ転がり雪に半分埋まった。雪がクッションになって何処も痛くは無かったが、何が起きたのか一瞬では理解出来なかった。どうやら足元が見えなかったせいでルートを外れて少し切れ落ちた斜面の方に突っ込んで行ってしまったらしい。これを滑落と言って良いのか分からないけど、あぶねーって思いながらちょっと焦って倒れたまま一人で笑っていた。雪はサラサラではなくシットリとしていて確かに重い。良く見ると辺りの雪の表面に細かいクラック的なものが幾つか見え、雪崩の気配と言うか予感みたいなものを感じて鳥肌が立った。この辺りでは昨年雪崩の事故が起きている事を思い出し、やっと今自分が置かれてる状況に気づいた。
自分がさっき何処をどう転げ落ちたのか、どこを登って来たのか、その道は全く見えない。ていうか白いだけで何も見えない。ガスが薄くなった瞬間に、どっちが下かなんとなく方角を確認してそして急いで下り始める。それにしてもスノーシュウでの下りは噂には聞いていたが全然ダメだった。急いで下りたいのに、なかなか足元が安定しない。進んでいる方向が本当に合っているのかも怪しいけど、とりあえずさっきのトイレのある方を目指せば雪で埋まった道路に突き当たるはず。そう信じてほぼ視界ゼロの白い中を手探りで進んだ。暗闇を彷徨うなら分かるけど、何も見えない真っ白な空間をウロウロするのはなかなか味わった事がない体験だ。2001年宇宙の旅の最後のシーンを思い出した。実はもうさっきの滑落で死んでたんだけど、本人は気づいてませんでした、とかって言うベタなオチはやめてくれよって思った。
位ヶ原の雪原まで戻ったが、相変わらず視界不良で雪原なだけに更に方角が分からなくなる。もうどれだけ時間をこの白の空間を彷徨っているのだろう。良くわからない。ポケットからスマホを取り出して方角を確認しようとするが、冷気でグローブを外したとたんに指がまともに動かなくなので、グローブを外すとまず一回指を口に咥えて息を吹きかけながら温め、スマホを操作した。少し進むとまた方角をロストして再びスマホを取り出す。スマホを取り出す度に、寒さでバッテリーが落ちてない事を祈った。遭難とは、簡単に言うと自分が位置が分からなくなった状態の事を指すらしい。何も見えなくても、まだスマホのGPSと言う目で位置が確認出来ているのでまだ遭難はしていない事になる。でも本当に何処にいるのか全然分からなかった。スマホの電池が終わってたら、本当に自分も終わってたかもしれないと思うと少しゾッとした。
笠ヶ岳に引き続き、まさか今回の乗鞍も撤退する事になるなんて。ちょうど一年前に、ここまで雪は無かったけど冬の乗鞍には登れている。今シーズンの冬期登山は、立山の雄山を登って以来ピークを踏めてない。僕は多分雪山は結構登っている方だと思うし、それなりに経験も積んでいる。昨年は色々な雪山やバリエーションルートも登ったが、撤退したのは大雪の焼岳のみで、後はなんだかんだで登りきれていた。今年はなんかおかしい。何かが起きてしまう気がしてならない。
登山では毎年多くの方が亡くなっている。その殆どは雪山での事故だろう。夏山で怪我をする事はあっても、死ぬ事なんてそうそう無い。なんで雪山で人が亡くなるのか、滑るから?寒いから?間違ってはないけど、それだけでは無い気がする。あくまで個人的な意見ではあるけど、雪山の怖さは予想外、想定外の事が起き易くて、それが起きてしまったら対処が難しい事なのではないだろうか。夏と違い、天気で難易度は一変するし、例え晴れていても今度は道に積もっている雪のコンディションで予想外の展開となる。かかる時間は予定の二倍、三倍に激変する。同じ場所でも膝や腰まで埋まってしまう雪の時もあれば、逆にカチカチに凍って氷の滑り台になっていたりもする。滑落すれば下まで止まらないだろう。同じ山でも標高でコンディションは変化する。3000m級は本当に厳しいなと思う。今回の様に急な天気の変化で気温や雪のコンディションも急変するし、途端に危機的状況に追い込まれる。そして一番怖いのは雪崩かもしれない。起きそうな場所はある程度避けれるかもしれないけど、いつ何処で起きるかなんて誰も分からない。巻き込まれて頭まで埋まってしまったらまず助からないだろう。こんな事は夏山では起きないわけだし。
雪山をこれからやってみたいと言う人は多いと思う。やはり雪山は美しいし、登るのも楽しい。夏は全然楽しさが違う。雪山初心者の人が、あの雪山は以外と簡単に登れたよ、私でも登れたよ、軽アイゼンでも登れたよ、って言うような情報はそれはたまたま好条件揃って運が良かっただけかもしれないわけで、鵜呑みしてはいけない。スキー場のスキーやスノボーとは違うので、雪山に向かう時は死ぬかもしれないと言う最悪の事態も覚悟してのぞむべきだと思う。
今回の登山でこんな経験をして改めて思った。雪山登山を楽しみにしてたけど、今シーズンはダメかもしれない。なんか嫌な予感しかしない。雪山はどうしようなく美しいし、どうしようもなくリスクだらけだ。今となっては簡単に登れる雪山なんて一人で行かないだろうし。自分の五感や身体、技術を信じてフル活用して雪山に向かうのは正直しんどいし勇気もいる。ドバドバとアドレナリンも出る。雪山はやっぱり怖いんだ、そしてどうしようなく尊いんだ。これまでも何度か怖い思いもしたし苦しみながら登ってきた。今後、雪山を登って自分の身にいつ何が起きるかなんて僕には分からないけど、それでもどうせまた行ってしまうのだろうから、今自分に出来る事は、ただその時に備えてひたすら準備することしかないのかもしれない。